傘の中、降るのは

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   雨粒に頬を打たれるまで、降り出した雨に気がつかなかったのは、走り出さないように必死で自分を抑えていたからだろうか。さああ、と雨音も聞こえてくる。

 自分から席を立ったけれど、浮気相手と彼の前から逃げるように去るのは嫌だった。極力落ち着いて見えるよう、ゆっくりとした足取りで店を出た。ギャルソンの姿は、フロアにはなく、バンコランが追いかけてくる様子もなかった。

 店から出て、路上で雨粒に当たって初めて、雨が降っていることを知った。たいした雨ではないけれど、いつまでも打たれていては風邪を引く。とりあえず、全身ずぶ濡れになる前にどこかで雨宿りしなくては。行き先の検討を始めた矢先、目の前を空飛ぶ絨毯が横切った。こんな物を乗り回しているのは、地球広しといえど一人しかいない。

「こんなところで何してるんだ」

 一度ぼくの前を通り過ぎてふわりと舞い戻った流星号の上から、パタリロの気の抜ける声が返事をよこす。

「何をしているとは失敬だな。ぼくはお前と違ってヒマを持てあましている訳じゃないんだぞ」

 この声を聞くと、腹を立てているのもバカバカしくなってくる。啖呵を切って飛び出してきた店の前にいつまでもいるのも間の抜けた話なので、ちょうど顔の高さに降りてきた流星号に手をかけて飛び乗った。

「丁度良い、乗せてよ」

「おい、流星号はタクシーじゃないんだぞ」

「勿論、お金は取らないだろう?早く行って」

「行けって、どこにだ」

「・・・あっち」

 行く先は決めていなかったけれど、とりあえずこの場から離れたくて、適当な方向を指さした。家とは別の方向。パタリロは少し迷ったようすを見せたが、ぼくが早くとせっつくと、仕方がないなとため息をついて、流星号をぼくの指した方向へ向かわせた。

「お前、家に帰らないのか? どこへ行くつもりなんだ」

「きみこそ、あんなところで何してたのさ。忙しいんならさっさと大使館でもマリネラにでも戻って仕事をすればいいのに」

「だから、大事な仕事の続きをしようとしてたんだ」

「あんなところで?」

「ルビーの商談が途中だったろう」

 呆れたことに、あのルビーを買わせたくて、店の前でバンコランとぼくが出てくるのを待っていたらしい。

「マライヒお前欲しくないのか?バンコランと揃いのネックレスだぞ?」

 確かにあのルビーは綺麗だったけれど。

「今はそんな気分じゃないよ。きっと彼も今はぼくと揃いのものなんて欲しくないさ」

 言い放ってしまってから、さすがに卑屈すぎたかと後悔した。しかしパタリロはそこには頓着せず、

「そう言えばバンコランはどうした。あの店で一緒に食事をしたんじゃなかったのか。どうして一緒に出てこないんだ」

金を払うのはバンコランなのだから、奴に話さなければ意味が無いじゃないか、これでは無駄足だ、と今頃怒り出して流星号を店に戻そうとするので慌てて止める。

「きっともう店にはいないよ」

「どういうことだ」

「・・・あのレストランのギャルソンが、バンコランの浮気相手だったんだ」

 改めて口に出すと、なんとも陳腐な話だ。気に入って何度も行った店だけれど、あの少年は今日初めて見た。最近働き出したに違いない。そしてバンコランはそのことを知らなかったのだろう。ぼくの気に入りのレストランに、偶然にも浮気相手の少年が勤め始めた。バンコランは今頃、この不運な偶然を嘆きながらぼくを探しているのだろうか。それとも、浮気相手の少年を連れて、ほとぼりを冷ます間、とバカンス先へ向かったか。さすがにそれはないだろうな、と思う。思いたい。

「それにしては静かに出てきたな」

「え?」

「いつものお前なら店中壊すぐらい暴れて、逃げるバンコランを追いかけながら出てくるところだろう」

 そういう言い方をされると、身も蓋もない。嫉妬に狂ったバカな男の醜態だ。でも実際、端から見ればそうなんだろう、いつものぼくは。

「タイミングを逃したって言うか」

「タイミング?」

 ふにゃん、とふやけたパタリロの頭上に?<}ークが浮かぶ。

 普段ませた言動をしていても、本性は十歳の子供である彼には想像しにくい話なのだろうか。言うだけ無駄かもしれないと思いつつ言葉を継いだのは、誰かに聞いて欲しかったからか、単に吐きだしてしまいたかったからなのか。

「彼が帰ってきたときから分かっていたんだ。出張なんて嘘で、浮気相手と旅行にでも行くんだって。本当はもっと前から、何か隠してるな、うきうきしてるな、ああきっと悪いクセが出たんだなって、薄々感じてた。でも、いつもみたいに怒れなくて。自分でもおかしいなとは思いながら、どうして良いか分からなくて決定的な証拠もなくてそのままやり過ごしてたんだ。本当に、ぼくらしくないんだけど」

 こんな子供に何を言ってるんだと思うけれど、袋から飛び出した猫はもう捕まらない。

「でも、ぼくらしいって何?とも思うんだ。バンコランが性懲りもなく繰り返す浮気に、逐一怒って、大暴れして、家を飛び出して、彼が宥めに来て、仲直りして。そんなことを延々繰り返すのがぼくらしいのかなって」

 パタリロに聞いたって、仕方のないこと。

 いや、きっと誰に聞いても意味はない。バンコランでさえ。

 答えは、自分で出すしかないのだ。分かっている。

 それでも、問うてしまったぼくに、

「とりあえず、雨宿りをしないか」

と、パタリロは答えた。

 

 
 
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